アウシュビッツに眠れ

9月の始めに在ったある晴れた日、僕は仕事や人間関係といった、僕を──まるで阪神甲子園球場に生い茂るツタのように──複雑怪奇にがんじがらめにしている柵といった類のものを全て放り出した。普段(ウィークデイのほとんどを)通勤に使っている駅までの道をダラリとした格好で自転車に跨がり、非常にスロウに漕ぎ出してみた。
驚くことに、見慣れたはずのその景色は全くといっていいほど様相を変えたかのように僕の眼と脳はそれを捉らえた。まるで、スカイブルーとはこの空を見上げた人物が名付けたのではないだろうか、と思わせるほど澄んだ青が上空一面に広がっており、深い緑を枝に繁らせた木々とのコントラストが眩しいほどに鮮やかだった。
ああ、世界はまだこんなにも美しかったのか、と、いかにウィークデイの朝における憂鬱の底深さ加減を垣間見たのである。
とても効果の強い漂白剤に付け込まれたかのように白い雲が、ぷかりぷかりと、てんでバラバラに浮かんでいて、錆の目立つ──一体何に使うものなのかさっぱりわからないけれど、きっと僕の窺い知る範囲外では何かの役に立っているであろう──鉄製の棒がピンと背筋を伸ばして空にその先端を向けていた。
狭い路地では、お婆さんが水を撒いているし、初等教育を生業にしている学舎からは、楽しそうな喧騒が風に掠われて鼓膜を揺らした。
僕はそんなゆったりとした時間の流れに身を委ねながら、それと同じぐらいのスロウ・ペースで左右の足を使いペダルを踏み込んでいる。
まだ小春日和というには暑すぎる日だったが、頬を擽る風はすっかり秋の気配を醸し出していた。
それにしても、ウィークデイにおける、この憂鬱すぎる道程はどうしたものか。もしも僕が陽気なユダヤ人ならば、まるでアウシュビッツへ続く道のようだよ、と小粋なジョークでもとばしてあげられようものだけれど、生憎ニッポンのオトコノコで、尚且つ、悲しいかなそう陽気といった性格は持ち合わせていなかったのだから、目も当てられない、などと思いつつ家路についた。
さて、せっかく手に入れた休みである。ぼうっと虚空に眼を泳がせて哲学にでも耽ろうか。あるいは3週間ほど放りっぱなしにしてある原稿用紙にペンを走らせようか。
そうだ、と思い立ったように、もしくは以前から計画していたかのように、引き出しから非常に神経質に取り出したグロックのセイフティを解除し、
握りを確かめ、
こめかみに当てた。

そして、これまでの人生で一番長いであろう溜息を、ふう、と吐いた。