モペット a GO!GO!

 ……ぱぱぱぱぱぱぱ
 柔らかい風と共に、彼女のモペットの放つ軽いエンジン音が部屋に流れ込んできた。ああそうか、と僕は約束を思い出し、大きくあくびをして、脳に酸素を送り込んだ。
 ぱぱぱぱぱぱ…ぱシュッ
 エンジンが止まる音に遅れないようにドアを開けた。
 「おはよう」となるべく笑顔を浮かべるように心掛けながら僕は言った。「いや、おはよう、と言うには些か遅すぎるかもしれないな」
 「はい、こんにちは」と、彼女。「遅すぎるとかそういう問題じゃないよ。もう正午は過ぎているんだよ?それなら、おはよう、じゃないでしょう。ここは芸能界?挨拶は全て、おはようございます、なの?」
 「オーケィ、オーケィ。ここは僕の家の玄関の前で、芸能界じゃあない。こんにちは、だね。でも僕は寝起きなんだ。だからその、おはよう、って挨拶が素直に顔を出したんだよ」オーケィを彼女のセリフの語尾に重ねるように僕はお手上げをした。
 「ったく」
 「さて、何処へ行くんだい?」
 「さあ?今日は天気が良いし、この辺りをブラブラと流そうかな、と思ってね」彼女は、最近買ったばかりのオレンジ色したモペットに愛おしそうな視線を投げながら言った。その2割でも僕に向けてくれれば、きっと、おはよう、なんて挨拶はしなくて済んだのにと思う。
 「まあ良いけれど、原付でかい?配達用のカブしかないけれど」
 「それはあなたの事情でしょう?」少し不満気に彼女は言う。「さあ、早く用意してきてよ。あたしはこの子のエンジンかけておくから」シッシッと犬でも追い払うかのように手を振り、急かす。


 彼女は決してエンジンをかけるシーンを僕に見せようとしない。あのモペットを買ってから両手では足りないぐらい会っているというのに、一度たりともその様を見たことはなかった。
 そのわけを前に一度聞いてみたのだが、モペットのエンジンはセルやキックのように簡単なものではなく、かけている姿があまり格好の良いものではないから見せたくないのだ、といった内容のことや、如何にモペットが面倒な原付か、ということを説明されてしまった。
 では、何故そんな面倒な原付に跨るんだい?と質問を重ねてみた。すると、あなた一体何を言っているの?とでも言いたげな表情で
 「ルックスが良いからに決まっているじゃない」と。「例えばね、あなたが女の子を口説くとします。あ、勿論例えばだよ?すぐ落とせそうだけれどあまりキレイではない女の子と、すごいタイプの子だけれど身持ちが固そうでラブホテルも安いところなんかには行かないわ、というような2人の女の子がいます。オーケィ?前者はあまり頑張らなくても楽に抱けるけれど、後者は頑張らないと抱けないの。でも頑張り次第でなんとかなるのよ。あなたならどっちを口説く?」
 「それはどちらか一人しか口説けないのかい?後者が無理だったから前者に乗り換えというのはなし?」
 「そういう条件はありえません」
 「うーん、それならば後者かな」
 「そういうことよ」良く出来ました、という風に口の端を上げて僕の頭を撫でた。「だってあの夜、あなたはそうしたものね」


 そんなことを思い出して、更にあの夜のことを思い出して、口の端を上げながらカブのキィを取りに行った。